私の想い

「私が人の健康に役立ちたいと思ったワケ」を話しています。17分弱の動画なので見てみてください。

00:00 ひ弱な幼少期

03:23 親の呪縛が解かれた高校時代

04:23 職場に馴染めないストレス

07:43 他者評価で生きてボロボロに

12:14 怒りのパワーで走り続ける

13:23 多様な人間

15:06 疾病予防事業に行き着く

●コロナ禍で

2019年12月初旬、中国・武漢市で第1例目の感染者が報告された新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、わずか数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となりました。私がちょうど、約39年勤めた会社員を辞めたときに重なりました。定年して1年間お礼奉公をしながら、契約したコワーキング・スペースで月2回、ソーシャルスキル・トレーニングを中心とした勉強会を開いたり、生きづらさを訴える人の個人セッションを始め、第2の人生やりたいことで生きていこうと決めた矢先のことでした。その第1弾として企画した「ナユタで健康・癒しのマルシェ」には、名古屋以外に兵庫県の三田市や養父市からの出店者も参加され、私にとって嬉しいスタートとなったのですが、開催直前の2月27日に、安倍元首相から全国小中学校一斉休校の要請がなされました。参加事前申込者から続々とキャンセルが入る。出店者の意思を確認し開催するも、訪れてくれるお客さまは疎らで惨憺たる結果に終わる。意気消沈した私は、1年間の準備をすべて白紙に戻し、活動自粛社会の中で、出生以来味わったことのないほどの、とても自由な生活時間を味わいながら情勢を見守ったのでした。

 

しかし、1年もすると焦りが出てきます。まわりには在宅勤務の人も増え、土日以外でもホームセンターなどは人手が多い。自分が会社で働いていた頃とは、随分と職場環境も変わったのでしょう。いまの人たちは、どんなことに困っているのだろう。私のやりたかったことは、変容した社会の中でも役に立てるのだろうか…。自問自答を繰り返し、得意なインターネットを使ってバーチャルなコミュニティをつくり、リアル開催していた講座を画面越しにやってみました。しかし、この間に、それまでビジネス経験もない主婦たちが、SNSを使って仲間を募り、思い思いに話をし、自身の経験やスキルでビジネスを始めていたのです。乗り遅れた、すごい時代になった…。そう感じた私は、2022年2月、先達の教えを受けながら、Facebookのタイムラインで、生まれて初めての公開連続ライブをやってみました。定年すぎたこんなオジサンの話を誰が聞きたいと思ってくれるのだろう。半信半疑ながらやってみると、思いのほか反響をいただいた。そして、続けたことで家族も応援してくれるようになったのです。

 

2023年5月8日、新型コロナは5類感染症に移行し、ようやく半強制的なマスク着用からも解放され、街は活気を取り戻しつつあるのですが…。

医療業界にあり、医療情報関連のシステム・エンジニアや診断支援機器の研究開発者として多くの医師たちと関わる中で、現代医療の無力さを思い知りました。それで、疾病予防事業に転身するも、国の進める健康施策や健康常識さえ疑うようになっていきました。健診・検査が病人を作っているのではないかと。「日本の病院は野戦病院にしか過ぎない」、これは2006年に発刊された宗像恒次(ヘルスカウンセリング開発者)の書「SAT療法」の中の一節です。

 

あまりに長い自粛社会の中で、日本国民は疲弊していく。馴染みの飲食店も幾つか閉店し、30年続く経済の低迷は改善せず、社会保険料や税金、物価は上がり続ける。そんな社会状況に、多くの人が将来に安心を見出すことができず、自ら命を絶つ人も増えていると聞きます。あなたは、自分の子供たちに、明るい未来を語ることができますか?

常に10年先を予見して仕事してきた私が、コロナ社会になって先が見えなくなってしまった。なにが真実なのかがわからない。試行錯誤の末、会社員時代に抱いていた疑念が確信に変わると直感し、歴史の真実や地政学、そして今さらながら、資本経済について学び直してもみました。そのことでいろんなことが、再び見えるようになってきています。

だからいま、そんな知識も加えながら、メンタル・トレーニングで日本人を元気にしたいんです。

●幼少期・学童期の私

幼い頃、両親教員の厳しい躾の下で育った私は、思うように自分を出せず、「青白い顔の子」というレッテルを貼られるほど病弱な幼少期を過ごしました。よく気持ちが悪くなって寝込んだり、たんこぶのような大きな蕁麻疹をよく出していました。

まわりの模範たれと、常にまわりと比べられ、学業で劣ることを許されなかった(そう思い込んでいた)んです。だから小中学時代は優等生を演じ、学級、学校の役員を進んで引き受けていました。小学5年生の頃だったか、自分の鼓動や呼吸が異常に気になり、これが止まったら…ノイローゼのような状態を経験したこともあります。心配した父親に催眠療法に連れていかれましたが効きませんでしたね。でも、効いたフリをしてごまかしたりしました。100点満点以外は喜んでくれない母親の顔色をいつも気にし、試験が苦痛でしかたなかった。授業中腹痛に襲われたり、朝礼で倒れたりすることもありました。私の身体は、言葉にできない私の苦しさを、こんな症状(ストレスサイン)として、たくさん出してくれていたのですが、そんな知識は当時の私にはありません。親からは常にクスリを飲まされ、それが当たり前だと疑いもしませんでした。

●学生時代の私

高校は、いわゆる進学校に進みましたが、それで成績がグッと落ち、いくら頑張っても一番にはなれない。それが幸いしたんです!おかげでクラブ活動という楽しみに出会え、まわりのみんなは受験準備で早々と退部していく中で、私は高校3年の夏までスポーツ三昧の日々。彼女もでき、とても健康的な思春期を送ることができました。

父親は家で私塾を開き、正月などは教え子が訪ねてきたりしました。そんな父の姿を見て、漠然と自分も教師になりたいと思い始めていました。数学や物理が得意で、高校の先生になりたい…。でも、そんな夢は、大学受験の失敗で崩れ去ります。そう、問題の「試験」です。失敗は許されないというプレッシャーで、受験初日は頭が真っ白…。それでも、当時、二期校と呼ばれていた大学にひっかかり、授業の傍ら、好きな写真を撮りながら大学生活を謳歌します。終盤、卒論ゼミの相棒が実験を私に任せ、学校に出てこなくなる。無理した私は、死ぬかと思うほどの脇腹痛に襲われました。尿管結石。そして、十二指腸潰瘍にもなっていた。また、身体は必死に訴えてくれた。なのに無知な私は、また医療に頼り、クスリで無理やり症状を消そうとしていたんです。どうしてそんな病気になるのか、考えることもありませんでしたが、大学のドイツ語のテキストで読んだ「ボートの三人男」の中の病気の話が、なんだか気になっていたことだけは記憶に残っています。

●会社員時代の私

自分が健康でいたいし、まわりのみんなも健康で、笑い合って過ごしたい、それが就活時の私の想いです。地域柄、求人をいただくのはトヨタ関連の製造業ばかり。近所のクスリ屋さんから、出入りしている業者さんが新しく医療機器の開発部門をつくるらしいよとの話を聞き、その会社を訪ねてみました。すると同じ大学学部出身の先輩が出てきて、これからつくる部署だから、なんでもやりたいことができるよという。ここだ!ここなら、大会社の歯車にならなくて済むのではないか…。 大学生になってなお、出身校に出向いて部活の後輩指導にあたっていた私は、まったく就職活動をしませんでした。親からは公務員を進められましたが時すでに遅し、というか、なりたい教員免許が取れないと判った時点で、そこに興味がなかったんです。

 

入社して3ヵ月。本当に開発部門ができ、そこに配属となった。嬉しくて希望に胸躍らせていました。でも、新入で開発部門への抜擢は妬みのもとでもありました。就職当時の私は、学校の世界しか知りません。クソまじめで人づきあいが下手。タバコは吸わない、麻雀もゴルフもしない。つきあいの悪いヤツ、そんな目で見られました。それがストレスだったんですね。潰瘍が再発し、定時退社の病院通い。高度成長期で、まだ残業の概念もなく、夜遅くまで働いては飲みに行くのが当たり前の時代。定時で帰る私は「できないヤツ」と思われていました。まもなくして、上司が世に出て間もないマイコン(現パソコン)を手渡し、医療会計のプログラムを創れという。医療会計もパソコンも知らない私に、誰もなにも教えてくれません。どうすればいい…。悩みながら休日に新聞を眺めていると医療事務の学校広告が目に留まる。これだ!そう思った私は、そこに行かせてくれと直談判。なんと、2か月、会社のお金で就業時間に学ばせてくれました。辞めさせたいわけではないんだ…。そのことをきっかけに病院通いを止め、パソコンと格闘しプログラミングを覚えます。毎日深夜までそんなことを続け、医療会計のプログラムを創り上げました。「よく頑張ったな」、無視されていると感じていた先輩方からそんな言葉をかけられました。やっと、その部署の一員になれたと思えたできごと。 

 

このことが社外に知れ、私は病院やクリニックから情報処理システムの開発を頼まれるようにまでなりました。大きなシステム開発を設計からプログラミングまで、全部自分でやる。他に人材がおらず、納期に追われ、寝る時間もなくなり、会社に寝泊まりする生活が続きました。それで、また私は身体を壊すんです。腹痛再発。四六時中吐き気に襲われ、無理に食べてもすぐに戻してしまう。喉に何か詰まってるような違和感まで出てくる。次第に食べられなくなって激やせして倒れ、入院しました。上司からは「逃げた」と言われれ、ベッドサイドまで仕事のことを聞きに来た。そんな苦しい思いをしながらも、人間ドック施設の情報処理システムを作り上げた私に、システム開発チームのリーダーを任せてくれました。これからだ!そう思った矢先に上司の交代。「儲からんだろう」の一言で、私の仕事は失くされてしまったのです。 

 

会社は世のため人のためとはいうものの…利益を出さなければ存続できないのが営利企業の性。それでも私は、人々の健康のお役に立ちたかったのです。エンジニアの私がドクターと組んだら、画期的なことができると信じていた。それで私は、またも会社のお金で東京の医系大学に1年間通わせていただき、基礎から臨床医学、医用工学を学んで医療機器に組み込むソフトウェア開発に取り組んでいくのですが…。 

私のライフチャート、縦軸は自覚する幸福度です。アップダウンが激しい波風人生ですよね。青く影をつけた部分が会社員時代ですが、38年9ヵ月やっていましたから、書けば本1冊では足りないほどの経験をしました。上に書いたような私の性格が災いし、幾度もどん底を味わい、3度もひどいパワハラに遭いました。「正しい」と思ってやったことで足元をすくわれる(この「正しい」がクセモノだということは後から気づきます)。業界雑誌に載る、テレビ取材を受けるなど社外評価を得る度に、ありもしない噂を流され、寄ってたかって潰しにかかる。社内営業が大嫌いだった私への報いなのか…。人間不信の自暴自棄。受診していればうつ病の診断もつけられていたかもしれないほど、心身病んだこともありました。それでも私は、その経験から何かを学び、なにクソと立ち上がっては、置かれた場所(異動先)で、自分の信じる未来を、自分のできる限り生きてきました。この経験は、誰かの役に立つだろうと思っているので、別の形で文書化、公表したいと思います。

 

●ヘルスカウンセリングと出会った私

いわゆる自律神経失調の症状に長年苦しんだ私は、2001年から自身のウェブサイトを建て、心の状態が身体にどのように表れるのかを伝えたくて情報発信を始めました。それがご縁で、保健指導に関わる多くの仲間たちと出会い、さらに2008年、「ヘルスカウンセリング学」に巡り合います。その教科書には、私が痛感していた医療の問題も書かれており、どのようにしたらWell-beingな人生が送れるのかのヒントもたくさんありました。

以来15年、宗像からヘルスカウンセリング学を学び、進化し続けるその技法「SAT法」を実生活の中で実践しています。還暦を過ぎ、もうじき5年になりますが、とても健康で、時々顔を出す症状ともうまくつきあえるようになりました。老ける速度も遅いのか、10歳以上若く見られます。

ただ、いまの私も不器用で、バカ正直で、あいかわらず冗談は苦手です。でも、そんな自分を愛しいと思え、これでいい、いや、これがいいんだと心底思えるようになった。だって、それが私の遺伝子に描かれているベースの気質なんだから…。これからも、自分のやり方で、自分もまわりも愛していくと決めています。